海外批評誌Grindhouseが映画『さなぎの猫』をカントの「崇高」から読み解く
- 貴行 武信
- 16 時間前
- 読了時間: 5分
イスラエルの映像配信サービス「Grindhouse」で配信中の映画『さなぎの猫』について、同サイトのMagazineに批評記事が掲載されました。
記事タイトルは「שאינו נתפס(捉えきれないもの)」。

記事では、島へ漂着した謎の女性と、その存在によって静かに揺らいでいく島の人々の暮らしを、イマヌエル・カントの「崇高」という概念から読み解いています。
以下では、原文の段落構成と論の順序に沿って、記事の内容を日本語で要約して紹介します。※全文翻訳ではなく、原文の論旨をまとめたものです。
「美」と「崇高」
記事はまず、カントが区別した「美」と「崇高」について説明しています。
「美」は、人間の感覚や理解の尺度に適合し、その形の中に調和を感じることのできるもの。
一方の「崇高」は、荒れた海や星空、巨大な山のように、人間の想像力では一度に捉えきれないものに出会ったときに生じます。
目の前のものを完全に把握しようとして想像力が失敗し、その限界を知る。そこから、美の穏やかさとは異なる、畏れや高揚を伴った感覚が生まれる。
さらにカントは、想像力では像として捉えることのできないものを、それでも理性は考えることができるとしました。
記事は、『さなぎの猫』がこうした「捉えきれないものとの遭遇」を、派手な形ではなく静かな映画として描いていると捉えています。
島へ漂着した異邦人
続いて記事は、島へ漂着する謎の女性に注目します。
映画は彼女を怪物として描くわけでも、その到来を侵略として扱うわけでもありません。
彼女は、島の人々が知っている既存のカテゴリーには収まらない存在として、ただそこにいます。
記事では、その静かな異質さこそが、カント的な「崇高」に通じるものだと論じています。
彼女が危険な行動を起こすから島が揺らぐのではなく、これまで島の人々が当然だと思っていた世界の尺度に彼女が収まらないこと自体が、日常の秩序を揺さぶっていく。
原文ではこれを、外から押し寄せる巨大な嵐ではなく、「既存の秩序の中に場所を持たない静かな異質さ」として捉えています。

侵略のないSF
記事は次に、『さなぎの猫』を「静かなSF」として論じます。
本作は、世界を救う物語でも、宇宙人との戦争を描く映画でもありません。
しかし記事では、むしろその点において、派手なアクションや特殊効果に満ちたSFよりも、カントの「崇高」に近いとしています。
カントにとって崇高は、何か大きな事件そのものにあるのではなく、人間の意識が自らの限界にぶつかる「関係」の中に生まれます。
戦闘も勝利も差し迫った危険もないからこそ、この映画では「既存の枠組みに収まらないものと出会う」という経験そのものが残る。
記事は、派手なアクションが未知なるものを単純な恐怖へと変えてしまうのに対し、『さなぎの猫』の静けさは、理解を超えたものと向き合う感覚をそのまま残していると論じています。
人と人とのあいだにある距離
記事はさらに、謎の女性と島民との関係だけではなく、もともと島で暮らしている人々同士の距離にも目を向けます。
カントが「崇高」を、外部の巨大な自然だけではなく、人間が「無限」を思考する能力とも結びつけたことを踏まえ、人と人との隔たりを一種の「内なる無限」として捉えています。
どれほど小さな島で隣人同士として暮らしていても、人間が他者を完全に理解することはできません。
謎の女性が現れることで、それまで日常の中に埋もれていた島民同士の距離や異質さも浮かび上がってくる。
記事では、未知なるものは海の向こうにだけあるのではなく、共同体の中にも、そして人と人との間にも存在していると読み解いています。
小さな尺度としての島
続いて記事は、舞台となる瀬戸内海の小さな島そのものについて論じています。
長年続いてきた生活や習慣によって形作られた、小さく閉じた世界。
そこへ、その世界の尺度には収まらない存在が入り込むことで、島全体が揺さぶられる。
記事では、カント的な「崇高」は絶対的な大きさだけで決まるものではなく、人間の持つ尺度との関係の中で生まれると説明しています。
だからこそ、島が小さく、住民にとって馴染み深い世界であればあるほど、そこに現れた異質な存在は大きなものとして感じられる。
広い世界の中では小さな出来事であっても、狭い世界の中では巨大な意味を持ち得る。
記事は、『さなぎの猫』が島の小ささを利用することで、「そこに属さないもの」の存在感を強めていると論じています。

謎とともに留まる
最後に記事は、『さなぎの猫』が多くの謎を解決しないまま終わることについて触れています。
漂着した女性が何者なのか。どこから来たのか。
映画は、それらをつまびらかにはしません。
しかし記事では、カントが「崇高」を理解可能なものへと解決することを求めなかったように、この映画もまた、謎を説明によって閉じるのではなく、そのまま残すことを選んでいると捉えています。
原文では、謎が解決されないことについて、
「映画の欠点ではなく、その誠実さである」
という趣旨で評価しています。
人間の理解を超えたものに出会い、世界が自分たちの言葉で説明できるものだけには還元されないと知る。
記事は、その「開かれたまま残るもの」の中に、『さなぎの猫』の「崇高」を見いだして結ばれます。
制作側として
ここからは、Grindhouseの記事の要約ではなく、U.M.I Film makersとしての感想です。
『さなぎの猫』はこれまで国内外の映画祭で上映・評価していただいてきましたが、今回のように、一本の作品を思想や哲学の観点からまとまった形で読み解いてもらう機会は、また少し違った嬉しさがあります。
特に興味深かったのは、カントの「崇高」という一つの考え方によって、本作の「静けさ」「小さな島という舞台」「人間同士の距離」「謎をつまびらかにしないこと」といった、製作時に意図していた要素を、別の角度から読み取ってくれている点でした。
勿論、カントのことは製作当時は一切想定していませんでしたが、作品を作った側とは異なる文化圏から、異なるアプローチで、私たちが意図していたものと重なる見え方を提示してもらえることも、映画が海を越えて届く面白さのひとつだと思います。
『さなぎの猫』は現在、Grindhouseにてヘブライ語字幕付きで配信されています。
『さなぎの猫』
監督・脚本:野村有志
2022年/日本/88分
原文:Grindhouse Magazine「שאינו נתפס」


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