映画『さなぎの猫』、Grindhouseが描く「静かなSF」と“見る速度”
イスラエルの映画配信・批評サイト「Grindhouse」に、映画『さなぎの猫』(CAT PUPA)のレビューが掲載されています。
以下、レビューの内容を要約します。

何もしない異邦人
『さなぎの猫』は、島へやって来た異邦人が、ほとんど何もしないまま周囲の人々を変えていく映画である。
その構造は、ピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』にも通じる。
花子自身が何かを引き起こすのではない。彼女はそこにいるだけで、周囲の人々が勝手に変化していく。
これはドラマとしては難しい構造だが、十分な時間を与えられたアンサンブルと、映画が最後まで失わない忍耐強さによって成立している。
観客もまた島民と同じように、そもそも意図など存在しないかもしれない相手の意図を読み取ろうとすることになる。
何も起きないSF
『さなぎの猫』は、未知との遭遇を「侵略」や「世界の救済」へ向かわせない。
政府も軍隊も科学的大発見も登場せず、小さな共同体の日常がそのまま続いていく。
それは映画から大きな緊張感を奪う一方で、恐れや驚きを人間の身近な尺度に留めている。
タイトルの「さなぎ」も、この映画を読む鍵になる。
蛹は、かつての姿ではなく、まだ次の姿にもなっていない途中の状態だ。
島の人物たちもそれぞれ何らかの過渡期にあり、花子の登場は、すでに始まっていた変化を早めている。
映画が教える「見る速度」
88分の長編だが、一般的な劇映画とは違う速度で進む。
長いショット、少ない台詞、昼と夜の移り変わりが物語の一部を担う。
速い展開に慣れた観客には、最初の20分ほどは難しいかもしれない。
しかし、そこを越えると、映画そのものが「この作品をどう見ればいいのか」を観客に教えてくれる。
抑制された日本映画のドラマ表現をSFへ持ち込んだ結果、ホラーでも冒険映画でもなく、むしろ「観察」に近い作品になっている。
島も、そこにいる人々も大きくは動かない。
変わるのは、「何があり得るのか」という世界の輪郭だけだ。
一言で人に薦めるのは難しいが、何年か経ってもふと思い出すような映画である。
『さなぎの猫』は静かなSFであり、辛抱強く付き合う観客には何かを残す作品だ。
(以上、要約終了)
海外で読まれる『さなぎの猫』
今回のレビューでは、『さなぎの猫』の静かな演出や独特のテンポを、弱点としてではなく作品そのものの性質として捉えています。
特に、花子が自らドラマを動かすのではなく、その存在によって周囲が変化していくという読み方や、映画自身が観客に「見る速度」を教えていくという指摘は興味深いものでした。
このレビューが掲載されたのは2025年8月です。
海外で『さなぎの猫』がどのように受け取られてきたのか、その記録のひとつとしてあらためて紹介しました。
『さなぎの猫』(CAT PUPA)
監督・脚本:野村有志
出演:浅雛拓、鳩川七海、一瀬尚代、野村有志
撮影監督・編集・製作統括:武信貴行
2022年/日本/88分



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